シリーズ「風早ものがたり」
第4回 ~消えた島と水除浜塩田~
文政8(1825)年に完成した「芸藩通誌(げいはんつうし)」の風早村絵図(図1)には、大芝島・小芝島・龍王島・桐島の4島が描かれています。「大芝島・小芝島・龍王島」の3島は現在もありますが、「桐島」は見当たりません。
桐島は、いったい、どこにあり、どんな島だったのでしようか。また、いつごろ、なぜ姿を消したのでしようか。
文政2(1825)年に書かかれた「風早村国郡志書上帳(かざはやむらこくぐんしかきあげちょう)」には、桐島について『村の東の沖にあり、陸地から50間(約90m)ばかり離れている。島は岩で樹木は生えていない。干潮の時は、歩いて渡ることができる。岩の上には、小さな地蔵堂があり、天然痘に霊験があるといわれている。磯砠(いそはえ)同様であり、なぜかは分からないが、古くより桐島と呼ばれている。』と述べています。
桐島は、「塔乃小島」「とうの石」「唐の小島」とも呼ばれていたようで、島というよりは、干潮時には全姿を現すが、満潮時にはかなりの部分が海に隠れる岩礁のようなものであったと思われます。 いつごろ、なぜ姿を消したのでしようか?
その手がかりが、「図2 水除浜塩田開発計画図」にありました。
図2は、赤色の点線に囲まれた海面を埋め立てて塩田を築く建設予定絵図で、埋立予定地内の南側端に「桐島」があります。
この塩田は、180年前の天保5(1834)年に完成した水除浜塩田で、桐島は塩田の堤防として利用されその姿を消したようです。
明治31(1898)年の地図(図3)でみると、水除浜塩田は、榊山神社の西側にあったことが分かります。
昭和16(1641)年ごろ榊山神社から風早方面を写し写真を見ると、工場の船着場の向こうに、昭和5年に廃止され、呉線で二分された水除浜塩田跡が見えます。
その後、水除浜塩田は、戦中から戦後にかけて三井造船所工場用地、さらに農地として埋立てられたので、現在ではその姿を見ることはできませんが、地番が「風早字水除浜2034番~2073番」の土地は、かって水除浜塩田であったようです。
今日、塩田跡を伝えるものは、塩田の守護神を祭った塩釜神社の祠(ほこら)が置かれていた石の台座と傍にあるウバメガシとなりました。