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シリーズ「風早ものがたり」

第1回 ~「風早」という地名~

 「風早」という地名の由来は、言い伝えもなく確かなことは分かりませんが『伊予国の中部(現在の愛媛県松山市北条)で力を持っていた風早氏が、6世紀ごろ北上し、安芸国のこの辺り一帯の島々や陸地にも勢力を広げた。その一族が風早の地に住み着いたので、風早氏にちなんでこの地を「風早」と称するようになった。』とも言われています。

 天平8年(736)新羅の国に派遣された使節団が乗った船が、風早(風速)の浦に泊った夜に作った歌が2首、「万葉集」に載せられています。この2首は、約1300年以前に「風早」と呼ばれていたこと、しかも、中央にも知られた国指定の重要な「海の駅」であったことを示す確かな証拠です。

 時代は下がって、平安時代の歴史書「続日本後記」には「安芸国風早」と、室町幕府三代将軍の足利義満が厳島(宮島)を参詣した際の紀行記には「かざはや」と書かれています。当時は安芸国賀茂郡風早と呼ばれていました。

 その後、「風早」の示す範囲(地域)や行政名がどのように変わっていったかを紹介します。

 もともと「風早」は、現在の風早・小松原・大田の三地域辺りを総称した地名だったようですが、慶長6年(1601)に福島正則が広島城に入り検地を行った際に、「風早」を風早村・小松原村・大田村の3村に分けて支配しました。この3村分立状況が約290年近く続きました。

 明治になると、時の政府は「各町村はおおよそ300戸以上を常例とする。」という方針に沿って、明治22(1889)年4月1日市制・町村制をしきました。

 当時、小松原村は83戸、大田村は118戸だったので単独村とはせず、元々一村であった、風早村(322戸)と合併することとなり、人口約3000人・戸数約520戸の村が誕生しました。

 村名は風早、大田、小松原の一字をとって「早田原村」とし、風早は広島県賀茂郡早田原村風早と称されることとなりました。

 昭和18年1月1日には三津町・木谷村と合併し賀茂郡安芸津町風早、昭和31年4月1日の郡境変更で豊田郡安芸津町風早、さらに平成17年2月7日には東広島市安芸津町風早となりました。

 このように、「風早」という地名は、時代は変わっても、村の分離・合併が行われても、東大寺の大仏が作られた約1300年前から、消えることなく受け継がれてきた由緒ある地名であるといえるでしょう。


祝詞山八幡神社の万葉歌碑 昭和5年に建てられた早田原村役場


第2回は、「観音浜新開(塩田)」の予定です。

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