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シリーズ「風早ものがたり」

第3回 ~龍王島~

 今から約300年前に書かれた「広島藩御覚書帖」によると、当時、風早村に属する島は、人家のある「大芝島」と人家のない「桃島」「小芝島」「塔乃島」の4島でした。

 その後、これら4島がどのような変遷をたどったかを3回シリーズで紹介する予定です。第1回は龍王島を取り上げてみます。

島の名  現在、島名は「龍王島」に統一され、「桃島」と呼ぶ人は私のようは高齢者に限られているようです。前記の「広島藩御覚書帖」では、「桃島」と表記し、「龍王島とも唱え候」と書き添えおり、古くから桃島と龍王島2種類の名前で呼ばれていたようです。

 昭和10年2月、三呉線(呉線)開通を目前にひかえ、三津町が三津小唄を募集しました。その三等の入選句には「三津の桃島 花咲くころは 浪の色まで赤くなる」という歌詞があります。また、昭和26年に制定された風早小学校校歌に「海のたいきも 清らかに かすむもも島 あいの島」と歌われています。昭和期までは「龍王島」は「桃島」の名で呼ばれていました。

島の開発  江戸時代、龍王島は広島藩が管理する「御建山」(おたてやま)で、山の木を伐採するなど、開墾することは固く禁じられていました。

 明治になって民間に払い下げられ島の開墾が始まりました。明治30年代の終わりごろに、大崎下島の大長から移り住んだ人の手によって、開墾が進められ、桃の栽培がおこなわれるようになりました。大正5年(1916)発行の「賀茂郡志」には、「周囲20町で、丘陵をなし果樹の栽培が盛んに行われる」とあります。

大正13年(1924)、龍王島で生まれた脇本政清さんに、島での生活をお聞きしました。

  • 父親から「島には良い水が出て荒谷酒造が酒水として利用していたので、その水番に大長から来た」と聞いた。

  • 家が4軒(大長出身が3軒・大芝から1軒)で10人くらいの人が島に住んでいた。大芝島から通い作をする人もいたので、全部で7・8軒が果樹栽培をしていた。

  • 昭和10年ごろは、桃の木が多く植えられており、花の咲く時期には三津の人が花見に来ていた。しかし、次第に枇杷に切り替えられ、昭和16年ごろには、枇杷とみかんが中心となっていた。

  • 昭和34年(1959)に、最後の一人が島を離れて以来、住む人のいない無人島になった。

 その後、安芸津町が島をまるごと買い取り、平成9年(1997)7月に、キャンプ場、研修棟、炊事棟、トイレ・シャワーを備えた自然体験村をオープンさせました。現在、年間約800名程度の利用者があるようです。


昭和39年の龍王島 龍王島自然体験村


第4回は、「消えた塔乃島」の予定です。

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