シリーズ「風早ものがたり」2

シリーズ「風早ものがたり」

第2回 ~観音浜のうつりかわり~

 現在、安芸津市民グラウンドやクレトイシがあるあたりは、江戸時代の終わり頃に築かれ、昭和5年まで製塩が行われた「観音浜」と呼ばれた塩田でした。むかし、塩田であったことを物語るものとしては、築調当時建てられた製塩の神様を祭った塩釜神社(今は鎌倉大明神が祭られている。)が今も残っています。

 天保7年(1836)3月、風早村西脇観音堂(向組の観音堂)の沖を阿賀村の宮尾彦五郎と広村の三右衛門が自費で新開を築きはじめました。3年後の天保10年3月には、総面積約13町(13ha)の新開が完成し、約10町の塩田と3町の田畑ができました。当時すでに安芸津町には、他に7か所(木谷村3塩田、三津村1、小松原村1、風早村2)の塩田ができていましたが、最後に築かれ、一番面積の広い塩田でした。

 風早村の人々は、土木工事に雇われ、製塩が始まると塩田従事者として職を得て、さらに、窯を焚くのに必要なまきを売るなどの余業もあって、地元は大いに活況を呈したことでしょう。

 新開をつくった功績により彦五郎・三右衛門の二人は、それぞれ5反分の税を免除されました。天保11年には、それを記念して、二人の名前とともに、「拝領永代諸役御免地」と刻まれた石碑を建てました。現在、観音浜の塩釜神社境内に石碑が残っています。その5反の土地は、その後「御免地」と呼ばれるようになりました。

 6軒がこの塩田で製塩を行っていたので、六軒浜とも呼ばれていましたが、築調約100年後の昭和5年(1930)には、国の方針で塩田は廃止となり、その後は、ほとんど利用されず放置されていました。

 昭和23年、農林省は、この観音浜塩田跡地を農地にして、食糧を増産するため呉製砥所から買い取りました。昭和28年には、広島県が「安芸津干拓第3工区」の名で、堤防の整備と樋門の改築工事に着工し、昭和38年には29戸が入植して耕作活動を開始しました。

 しかし、昭和39年7月、観音浜に国道185号線が開通すると、次第にその姿を変えるようになりました。

 旧ルートは、安浦町三津口から北上して女子畑を経て榊山に至るものでしたが、幅が狭くカーブが多かったので 、三津口から瀬戸内海沿いに小松原を経由して観音浜・干拓(南区)を通り榊山に至る9.5km の新ルートが計画されました。昭和28年に着工し、昭和39年7月には、安浦町三津口から安芸津町榊山に至る幅員7.5~8.5mの沿岸新ルートが開通しました。

 交通の便が良くなると、安芸津町は、観音浜を工場用地として企業誘致を進めました。昭和48年、クレトイシ株式会社が進出を決定し、平成3年、敷地面積約7万㎡、従業員20名の工場が操業を開始しました。昭和61年(1986)4月に、16,748㎡の町民グラウンド(現市民グラウンド)が作られ、そのほか、沿線には住宅・自動車関連工場・薬局・病院なども建つようになりました。

 このように、170年前に遠浅を埋め立ててつくられた観音浜塩田は、時を経るにつれ、時代の要請も変化して、塩田、農地さらには工場用地・商業用地へと様変わりをしました。


塩釜神社と御免地の石碑


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